昭和五十四年六月三十日朝の御理解
御理解第九十七節                                神を拝む者は、拍手して神前に向こうてからは、たとえ槍先で突かれても後ろへ    振り向くことはならぬぞ。物音や物声を聞くようでは、神に一心は届かぬ。      神様に向かって、いわゆる一心不乱の時には、確かに、物音も聞こえん位な心の状態が 開けてくるもんですけれども、私共は、なかなかそうばかりにはいきません。雑音が、入ってきますね。それでやはり、神様に向かうからには、やはり演出と申しましょうかね、姿勢というものを形の上でも作らせて頂く。いうなら、静かな時間、静かな時を選んで、たとえばご祈念をするといったような事も、やはり手立ての一つでしょうね。
例えば、外では雨音がしきりと聞こえてきますけれども、なら、締切るとその音が半減 してしまいます。それこそ、お話しの邪魔になるようにひどく雨音がしておりましてもそれが柔らかくね。やはり、戸を閉めたり、又は、静かな場所を時期を選ばせてもらう。
私は、信心がだんだん有難く、好きになってくるとね、そういう工夫をやはりするよう になります。私が、十二時からいつもここに出て来るんですけれども、もう本当に、静かに静かに、ここでご祈念しとる人達があります。そういう時期が、一番ご祈念がしやすいわけですね。で、あまり一心不乱に御祈念しよって、そのままちぁんと朝まで眠っておったというような事があるようですけれどもね。
やはり、信心には、やはり工夫が要ります。ね。家族中で、お風呂ども頂いて、それか ら食事を済まして、皆がお風呂に入って、御神殿に明々とローソクの一つども立てて、そして家族中の者で、いうならば御祈念をする。「さあ御祈念ぞー」と云うたら、皆が御神前に集まって来る。もうそこでテレビは消される、いらん所の電気は消されてしまう。
そして一家を挙げて、いうならば物音を聞かんですむような、...御祈念をしよる、向こうじゃ、子供どんがガチャガチャ云よる。本当に子供達に至るまでがね、後ろに来て、中心になる人が御祈念を始めたら、やはり家族中の者が集まって来るというね。
やはり、あれは本当に有難いです。信心家族、信心家庭がその御祈念の雰囲気だけでも 有難うなってくるもんです。その雰囲気が有難い。
今日は、いよいよ年に一回の大祓い式。交通安全の大祈願祭があります。お互い万事万 端、一年間無事息災、車を持っている人達は、又、自動車事故のないようにお祓いを受けさせて頂く。
私は、お祓いを受けさせて頂く。受けると云うことは、どういう効用というか、おかげ があるかは確かな事は分かりませんけれども、確かにおかげを受けておる証拠に、一年間、皆がいわゆる無病息災同様のおかげ。たとへ風邪をひいたの、熱があるの、腹が痛いのと云うても、御神米、御神酒さんでおかげ頂いとる。まあ医者の手一つ握ってもらわんでも、薬一服飲まんでもおかげ頂いとる。
合楽に御神縁頂いとる人たちは、皆そうです。ね。おかげを頂いて事故と云うても、そ れこそまあ怪我命にかかわるといった事故もなしに、こりゃ世紀の奇跡だと思うですね、合楽の大祓い式のおかげは。
千何百台、年には祓います。それが皆、無事故状態でおかげを受けておるということな んか、大変な、私は大奇跡だと思う。とても、今日はお参りせにゃおられん。御礼参拝せずにはおられん。信心はなくても合楽にお参りして、年に一回でもお参りされる。又は、去年も一年間おかげを頂いたからというて、大祓いに、はらえつものやら祈願の用紙をそれぞれに持ってみえて、遠隔地からも沢山送ってきております。
そして、大祓いを受けさせて頂く。気休めというようなものではないように思う。そこ に、確かに神様の働きがある事を感じるのです。
その信心の程度々々に応じて、それは受け方は違いますけれども、もう、なべておかげ を受けている。いうならば、いうなら合楽の権威にかけて、おかげを下さっておるような感じがする。
今朝方、起きがけに今日の事を思わせて頂いて、布団の上で、先ず布団に御礼申し上げ るんです。で、そして、私の寝ているそこが、もう床の間ですから、床の間に漢文で書いてある書の掛軸がかけてあります。その掛軸の中から、いつも沢山漢字を書いてある中から頂いて、いろいろヒントを頂く事があります。今日はね、神と云う字と、その真横にあります※てへんに苗という字を書いた、描書の描ですかね。※てへんに苗という字が書いちゃる。
どういうこつじゃろうかと思ったら、私が直感した事は、この※てへんを※けものへん にしてごらんなさい。猫と云う字になる。
ここでは、猫のお知らせは不成とおっしゃる。「お道でいう不成とは、成就せぬ事ぞ」と四神様は教えておられます。成就せぬ事が不成。
普通では、いろいろお粗末御無礼。黒不浄とか赤不浄とか申しますけれども、そういう 事はね、いうならば神様の方には、お道の信心でいう神様の前では一向差し支えない。ただ、心に不浄がおきた時には「先に断わりおいて、願いある事を頼め」と教えられるのですけれども。だから汚れたなり、というのではいけません。やっぱりね、お手洗で、手も洗わしてもらうし、口もゆすがして頂くというのは、やはりそういう気持ちです。心を清めるような気持ち。
なら清めても、清めなくても同じだと云う頂き方からいうと、そうせんでもよいのけれ ども、そうさせて頂かねばおられない。お祓いも、又そう。
ただ祓うてもろうたけんで、どうちゅう事はないけれども、そうさせてもらわねばおられないという内容は、一年間おかげを頂いてまいりました。無病息災、いわば無事故いや、同様のおかげを頂いてきた。その御礼を申さずにはおられん。又、帰りには一年おかげを頂かれるようにお祓いをして頂いて帰るという事。
私は、その中から感じた事はですね、いわば、猫は不成。たとえば、そこに食べてはな らぬ物を食べておると「こらっ」叩くでしょうが。※てへん、という事は叩くと云う事。いうならば、私共にある成就しない元、不成になる元があるならば、それは叩いてでもはずしてやろう、祓うてやろうとなさる働きが、今日も又、今日の大祓式の上にあらわれてくるなあということを、朝から頂いて合楽の交通安全祈願大祓式ちゅうのは、大変な意味があるものだなあと改めて思わせて頂いた。皆さん、そうなんですよ。
そういうおかげを頂いて、いうならば一途にというか、一心に神様に向こうていく。今 日はどんなに忙しかっても、どういう事があっても、自動車だけは祓うて頂いとかにゃいかん。今日は家族中でお参りさせて頂いて、それこそ、あの神風に当たらせて頂いかにゃね。ということに段々、なってこなければ成らないと思います。はらえつものを出しとるけん、それでよかと云う人もありましょう。家族中出らなくても、もうはらえつものに名前はちゃんと書いちゃるから、あれを祓うて頂ければ同じ事。それでも、やっぱおかげは受ける。
だんだん、信心が手篤うなって参りまして、いうならば一心が立つようになる。神様の 前に、いうならば乱れない、どのような場合でも不乱である。
一心不乱の信心が出来るようになったら、大祓いの日、一日位は休みにしても、大祓式に参拝させてもらわにゃおれんという信心が生れた時を、私は「槍先で突かれても、振り向く事はならんぞ、人の物声を聞くような事では、神に一心は届かぬ」と仰せられるのは、そういう事だと思う。
はあ、家族中参らんでも、そげなこつはほんなこつじゃか分かりもせん。ただ、祓うち もろうたけん無事故なら、こげな安しいこつはなかたいというふううに、云うならば、それこそ雑多な事を耳にするような事であっても、そういう事には振り向きもしない。そういう事には、問題にしないで、云うならば、神様に向かってくるというような心がね、やはり一心であり、不乱であります。
今日は、私共についている不浄が、神様が叩いてでも祓うてやろうとなさる働きの、云 うならば起こる、それは合楽教会の一つの権威にかけても、そういう働きがあるという事を皆さんが信じられたらね、もっともっと、いうならば皆さんがそれを実証なさっていったらね、そりゃどんな信心がなかでも、合楽の大祓式だけにはね、お参りせにゃおられん合楽の交通安全祈願祭にゃ、どうでも祓いを受けとかにゃおられんというような事から、いよいよ合楽の比礼が、比礼としてのおかげになってくるのではないでしょうか。各々の比礼であると同時に、神の比礼にもつながって来る事ではないでしょうか。
人からどうか云われたら、もう、こう迷う。突かれたら、もう後を振り向くと云うので なく、神に向かって一心であり、不乱である。乱れない。心が乱れない。
そういう信心が、だんだん出来てくる時にです、いうならば邪魔をされない演出もさることながら、たとえ邪魔をされても、それを云うならば、それで心を乱す事のない信心に、いよいよ進んで行かなきゃならんと思うですね。
                                  どうぞ